宣言文Declaration

第2回大会 ニューデリー宣言・1981

平和のために行動する宗教 Religions in Action for Peace

前文

一九八一年十一月七日から十一日にかけてニューデリーで開かれた第二回アジア宗教者平和会議(ACRPII)は、一九七六年十一月、アジアの宗教者たちがシンガポールに集って初めてアジア宗教者平和会議を開催し、宗教協力を具現化するとともに、アジアにおける人間の運命に共通の関心を示したあのときと同じ思い、同じこころを継承しかっ発展させたものである。

過ぐる五年の間に、われわれは、われわれすべてを繋ぐ絆が、われわれを分け距てるものより一層重要であるとの確信をますます深めるにいたった。われわれがともに行動したインドシナ難民救済、ボート・ピープル事業、クメール計画などの共通体験と努力を土台として、われわれは、「教義は分裂させ、奉仕は一致させる」ことを覚えるにいたった。

困難の状況のなかでわれわれがともに働いたことによって、将来ともわれわれが霊的伝統を踏まえながら人間の諸問題解決のために共働しつづけていくのに必要な経験を獲得した。宗教を異にする人びとの間に、相互の理解と尊敬がいや増しつつある。これこそ正しい方向に向かっての偉大なる一歩である。われわれは自らの挑んだ道をひたすらに歩みつづけ、平和のもといなる相互理解と互敬の分野を拡大していくことをここに誓うのである。

仏教、キリスト教、儒教、ヒンズー教、ジャイナ教、ユダヤ教、イスラム教、神道、シーク数、ゾロアスター教などをはじめとする幅広いアジアの諸宗教の代表が十六か国からニューデリーに集まったことじたい、われわれの活動が深甚なる結果を生むであろうとの確信をわれわれに与えずにはおかない。

アジアの現実

われわれ宗教者は、人間の悲惨のただ中にあって、此の地に集っている。苦しみのうめきはアジアの到る処にこだましている。差別のあるところ、人間の尊厳を侵されかつ無視された人びとの喚き声が口をついて出る。貧困に打ちひしがれた人びと、家なき人びと、権利を奪われた人びと、虐げられた人びとの叫びはいたずらに聞き流される。人間の尊厳は顧みられず、正義は軽んじられ、暴力と争いは日常茶飯事と化している。アジアでは、差別と格差と暴力が一つの悪循環となって自らを露呈する。アジアの到るところでこれらのものが三つ巴となって絡み合い、耐えがたい一つの社会的複合体を形成している。それゆえ、これらの問題の一つと取り組もうとすれば、同時に他の二つをも取り上げなくてはならない。

ここインドの地でわれわれは、アジアの現実に直面させられる。すなわち、気高くも栄えある過去の伝統と、圧倒せんばかりの現在の困難と、そして定かならぬ未来とがここにある。

民衆の苦しみをいや増すものとして富める国々による搾取があり、また大国間の対抗と覇権とがある。

各国内においても、経済発展の果実は公平に分配されず、人びとの基本的欲求は正当に充足されていない。軍備をめぐる競争は大国間のみならず、貧しい国々の間でも昂進し、国民が国富に然るべく母かることを妨げている。

アジアの霊性

アジアはおよそすべての偉大なる世界的諸宗教の源泉であり、発祥の地である。人類のより高い本性を活性化する霊性はアジアには豊かに存在する。この霊性は、それを表現する方法において各々異なるとはいえ、われわれを一つならしめる力である。それはわれわれの内にある高次の資質を向上せしめる力であって、上よりの恵みであり賜物であるとしてすべての宗教が証し、かつ宣言する大いなる愛と慈悲を、われわれが受け容れかつ伝えるに相応しいものとなさしめてくれる。アジアの人びとの心が、生活様式における物質主義的傾向と、人間の尊厳を求める切なる希求との間に千々に引き割かれる最も深刻な霊的危機の只中にあって、われわれは、霊性に根ざす新たな人間性を宣べ伝えなければならない。

アジアの霊性は、時として、アジアの現実に対する超越的無関心や彼岸的逃避へとわれわれを導き、心ならず現状維持の立場に奉仕する傾向に堕したことをわれわれは認めなければならない。しかし、われわれが共同の祈りと証しによって復活させようとする霊性は、弱さの只中において強さを、絶望の只中において希望を、そして憎悪の只中において愛を得しめるところのものである。この霊性は、それに活かされる人びとによって救済と奉仕の業へと向けられなければならず、この霊性の純粋さは、人間性を新たに魅せる力として験証されるであろう。われわれが証しするアジアの霊性は、われわれをアジアの惨憺たる現実に直面させ、これを人間味のある、そして永続きのする共存へと転化せしめる解放の力である。

霊性は、その本性上、人びとの心に共感を喚びさまし、ともに分ちあうことを通じて人びとを結びつける。霊性と共生とは互いに他を不可欠の前提とする。霊性なき共生は、単なる集合体にすぎず、共生を欠いた霊性は抽象的観念論に堕する。

われわれはこの集いそのものが、かかる霊的共生を現実化したものであり、ここで、相互の啓発と、相互の理解と、ともに分かち合うということが起こっている。われわれはこうした霊的共同体が、地域的、国家的、国際的レベルへと拡大されるよう心からこいねがうのである。

アジアの霊性

アジアはおよそすべての偉大なる世界的諸宗教の源泉であり、発祥の地である。人類のより高い本性を活性化する霊性はアジアには豊かに存在する。この霊性は、それを表現する方法において各々異なるとはいえ、われわれを一つならしめる力である。それはわれわれの内にある高次の資質を向上せしめる力であって、上よりの恵みであり賜物であるとしてすべての宗教が証し、かつ宣言する大いなる愛と慈悲を、われわれが受け容れかつ伝えるに相応しいものとなさしめてくれる。アジアの人びとの心が、生活様式における物質主義的傾向と、人間の尊厳を求める切なる希求との間に千々に引き割かれる最も深刻な霊的危機の只中にあって、われわれは、霊性に根ざす新たな人間性を宣べ伝えなければならない。

アジアの霊性は、時として、アジアの現実に対する超越的無関心や彼岸的逃避へとわれわれを導き、心ならず現状維持の立場に奉仕する傾向に堕したことをわれわれは認めなければならない。しかし、われわれが共同の祈りと証しによって復活させようとする霊性は、弱さの只中において強さを、絶望の只中において希望を、そして憎悪の只中において愛を得しめるところのものである。この霊性は、それに活かされる人びとによって救済と奉仕の業へと向けられなければならず、この霊性の純粋さは、人間性を新たに魅せる力として験証されるであろう。われわれが証しするアジアの霊性は、われわれをアジアの惨憺たる現実に直面させ、これを人間味のある、そして永続きのする共存へと転化せしめる解放の力である。

霊性は、その本性上、人びとの心に共感を喚びさまし、ともに分ちあうことを通じて人びとを結びつける。霊性と共生とは互いに他を不可欠の前提とする。霊性なき共生は、単なる集合体にすぎず、共生を欠いた霊性は抽象的観念論に堕する。

われわれはこの集いそのものが、かかる霊的共生を現実化したものであり、ここで、相互の啓発と、相互の理解と、ともに分かち合うということが起こっている。われわれはこうした霊的共同体が、地域的、国家的、国際的レベルへと拡大されるよう心からこいねがうのである。

平和のための行動

(差別) 差別問題は、そのかたちや深刻さが、国や場所やさらに宗教によっても異なるとはいえ、到る処にみられる普遍的なものである。差別を眼にするとき、われわれはこれを掩いかくすことなく、これを認めるにやぶさかであってはならない。政府の掲げる法律や、鳴物入りのプログラムにもかかわらず、いろいろな国で、婦人、人種、民族、蔑視されるグループなどに対する差別は跡を絶たない。ある国民、ある集団、ある個人が、それぞれ他の国民、集団、個人に対して経済的に差別していることがある。カースト制空も含めた古い宗教的伝統に根ざすこうした差別は、人々が他の宗教に改宗したあとでもなお存続することがある。宗教的伝道者たちの中にさえ、土着の原住民その他の蔑視されるグループに対して差別をするものがある。宗教的言語的少数者は多数者によって差別される。そしてこれらすべては、何らかのかたちにおける人権の否定につながる。

かくしてわれわれは切に思う。

(1)差別のあるところ、これを監視し、その場でこれと取り組むために、「アジア人権センター」を設立すべきことを。

(2)マス・メディアを善用して世界的水準を高めるような正しい広報活動が行われ、またアルコール、麻酔、麻薬のたぐいの乱用をやめさせるようにすることを。

(3)主要な諸宗教の道徳的教材をもととして行動規準を作成し、調和と人間の尊厳に資する緒価値を促進することを。

(格差) 経済的開発の究極目標は人間の開発であるという、従前の諸会議で到達したわれわれの理解を、われわれは繰り返し強調する。経済的開発は、社会正義の考慮に基礎づけられてはじめて、この究極目標に対して有意義に関係づけられる。社会正義実現の一助として強く推奨さるべきものに、国際的レベルにおける課税制度の採用がある。これによって富める国々が、あらゆる難民の福利と、開発の後れた国々の利益のために応分の負担を果たし、よってすべての国々がより相互依存度を高め、自国の運命が他国のそれと不可分に結びついていることを覚るようにならなければならない。

(暴力) マハトマ・ガンジーのような人類の指導者によって説かれかつ実践された非暴力の高貴な伝統を有する国において、第二回アジア宗教者平和会議が招集されたことにより、われわれは、個人的社会的な関係を問わず、またあらわなかたち、隠されたかたちを問わず、およそ暴力というものの本質をより深く認識するにいたった。暴力は暴力を生み、暴力によって成長する。ことに利己的目的のために用いられる暴力は、当然のこととして、暴力を行使するものとされるもの雙方の人間の尊厳を棄損するにいたる。

われわれは、差別のばあいと同様、教育その他の過程を通じて態度を変えさせ、人びとが紛争解決の方法として暴力に訴えることを断念するように図らなければならない。さらにまたわれわれは、軍事的、政治的、経済的を問わず、集団的暴力を封じ込める何らかの機構を作り出さなければならず、また現存するそうした機構を強化するようにしなければならない。

奉仕する宗教

(アジアの緊張) 外国の帝国主義錯列強によって身心ともに痛めつけられた幾世紀の荒廃ののち、アジアを再建するにはどうしても平和が必要であることをわれわれは信じかつ宣言する。ゆえにわれわれは超大国がインド洋、太平洋を軍事化する競争を直ちに断念し、また、この地域に攻撃用の精巧な新技術や兵器を導入することなく、開発途上国の経済再建のために少なくとも国民総生産の一パーセントを捧げ、途上国の貿易と雇備に悪影響を及ぼすような、途上国からの商品に対する貿易上の障壁を撤去するように勧告する。

われわれはまたアジアの宗教者に向かって、自らを内省し、宗教を政治的目的に利用することなく、また政治目的に利用されることなく、種々のレベルで宗教間の対話を促進し、近代社会の挑戦に答えるべく、自らの宗教的信仰や習俗に対してより深く創造的な理解を推進し、自らのものと異なる宗教的観点を軽視することなく、戦争反対と軍備なかんずく核兵器撤廃のために闘うのみならず、国家間、宗教間、あるいは一宗教内部において、対立よりも和解をもたらすべく、人の内なる霊性を強調することを強く勧告するものである。

われわれは、平等と互敬の基礎に立つアジア諸国の主権的平等を強調し、悪しき意図をもつ一切の大国に対して言う、「アジアより手を引け」と。

(教育) 教育は、無知、誤解、偏見、または迷信から生ずる現在および将来の困難を克服するのに最も有望な手段の一つである。とはいえそれは万能薬ではない。教育は両刃の剣のごときもので、しかもその効果は遅々たるものである。教育はともすれば現状維持の具たらしめられる。平和のための教育は、人間の本性に対する宗教的洞察に裏うちされてはじめて真に望ましいものとなる。

教育は単に学校だけの事柄ではなく、社会が、その価値と文化とを現在および将来の世代に伝達する全体的過程をいう。従って多面的な方法が発展せしめられるべきであり、それによって人びとは、世界平和に資するような、より普遍的人道的な価値や考え方を獲得するようにしなければならない。

(マス・メディア) マス・メディアは知識や情報を拡大する強力な手段である。と同時に、マス・メディアは、道徳的堕落の有害な道具ともなりうる。人間には相応しいマス・メディアの使用を保護するために、宗教はマス・メディアに倫理的規準を維持させる責任がある。

今日の社会では、マス・メディアは多数の人びとを結集させること、つまり集団と集団、国民と国民とを結びつけることを可能にしている。かくしてマス・メディアは人類の共通の運命と連帯性とをいやが上にも緊密ならしめる。

マス・メディアの無責任な使い方に対しては、全人類の福祉のために、かたくこれを監視しなければならない。

効果的な伝播手段としてマス・メディアは宗教がこれを然るべく利用し、人びとの宗教的情操と行動規準に影響を与え、健全な世論を創出するようにしなければならない。

(婦人) 第二回アジア宗教者平和会議が、強力にして活発な婦人と青年の両翼をもちえたことをわれわれは喜ぶものである。人類の未来はこの双翼に掛かっている。婦人のあるものたちは無知と隷従の市境から抜け出してはいるが、全体として婦人の地位は、社会・経済・政治の領域において、依然として格差、差別、暴力の対象として特徴づけられている。人類のこの半分は、人類の将来のためにそのもてる力を十分に発揮できるようにしなければならぬ。

(青年) 青年は未来の世代である。青年は来たるべき新世界共同体の先駆者であり、その形成には、彼らの高邁な理想主義、強烈なる正義感と自己犠牲心に侯つところ大である。青年が平和の有力な担い手となるためには、これら青年の徳性に加えて、アジアにおける共通の諸問題に関する認識がなければならない。

この認識を培養するためには、アジア諸国の青年たちがより緊密な関係をもち、研修と奉仕のための交流計画を推進し、もってアジアの人びとの苦しみを身を以て感じとり、ともに生きることの中でその苦しみを分かち合うことの意味を覚りうるように激励しなければならない。

真理、愛、正義

心理、愛、正義は、一切の宗教がこれを説いていることをわれわれは評価する。個人や集団によっては、宗教思想がかえって真の宗教の本質を掩いかくしていると解する向きもあるので、われわれはこれらの諸価値の大切さを改めてここに強調する。宗教は真理を証しする。真理を宣べ伝えることによって宗教は、人びとを無知から解放し知識を正しく用いるようにと導くという使命を果たす。

宗教は愛を証しする。この愛を宣べ伝えることはそれを実践することである。宗教は、われらの同胞のうちの最も貶められたもの、最も貧しいもの、最も弱きものと、自らをまったく一つにする。われわれ宗教者はこれらのひとに対してひたすら愛の負い日を負うのみである。

宗教は正義を証しする。正義は共同体ないし共に生きることにとって不可欠の条件である。正義は、創造主、ないし、われわれの存在の根源に関するわれわれの理解から流れ出ずるものである。

正義の社会を推進し維持するためには、真理と愛という不可欠の要素の上に絶えざる光を投げかけなくてはならない。すべての個人は、その生活をこれらの原理によって形成すべく、日々その宗教的信念を誠実に実践しなければならない。かくしてのみ人間行動の分野で、地方的国家的国際的に、人間どうしの良き交りが生れるであろう。

この分野では集合的努力が主題とされなければならない。公共的な仕事において個人のイメージを打ち出そうとする努力は、必ずや、現状ではいかなる社会においても抵抗に遭遇するであろう。チーム・ワークの推進はおのずから同労者の間に慈悲心を発展させ、責任と労働の果実とを分ち合うことをえさせるであろう。それはまた、働くものや家族構成員が、雇傭者、被雇傭者問あるいは世代間のギャップを埋めるに必要な連携を維持発展させるのに役立つであろう。このようにして、働くものや家族の間における平和を促進する方向への一歩が踏み出されるであろう。こうした平和への歩みなしに平和を語ることは、空疎にすぎるであろう。

われわれの希望

宗教は人びとを希望に生かしめる。信仰者は世界の陰鬱なる現実に直面しつつも、窮極的希望に導かれ、活気づけられるからである。われわれは「活ける希望の微」を見わけることをもとめられている。こうした希望の徴はなるべく多くの人びとによって分かち合われなければならない。

われわれは希望する。

(1)差別を排除する具体的行動として、「アジア人権センター」を設立することを。このセンターはアジア宗教者平和会議の規則の定めるところにより設置されるACRP人権委員会(常設)の管理のもとに置かれるものとする。

(2)ACRP傘下の宗教グループの共同事業として開発援助計画を発足させることを。これは貧困や飢餓や疾患に悩む人びとに援助の手を差しのべるものである。またこの目的のために、ACRP平和開発基金を設置することを。

(3)平和のための研究教育活動を強化することを。そのためにできうれば「平和教育センター」を設立し、ACRP関係の宗教団体が利用しうるような適当な資料を作成するものとする。
また各国委員会のもとに平和研究所ないし研究委員会を設置して平和への関心を開発することを。

(4) ACRPの和解委員会を活発化してアジアの緊張を緩和ないし解消するようにし、ACRPを和解の担い手たらしめることを。和解委員会は、インドシナの状況、アフガニスタン問題、核軍縮等々の重大事項を取り扱うことが期待される。

われわれは、愛の業は平和の業であるというマザー・テレサのことばを改めて強調する。われわれ宗教者は、宗教の名においてすら、差別や暴力の罪過を犯したゆえに、この崇高なる平和の使命に相応しくないことを告白する。よってわれわれは、全き謙遜のうちにわれらの同胞に対してより一層奉仕するものとなりうるよう上からの力を乞い求める。平和を求めるわれらの希望と祈りが実現され、ここで示されたわれらの一致がさらに深められんことを。

一九八一年十一月十一日 ニューデリーにて