宣言文Declaration
第3回大会 ソウル宣言・1986
アジアにおける平和のかけ橋
Promotion of Human Dignity and Humanization
前文
第三回アジア宗教者平和会議(ACRPIII)は一九八六年六月十六日から二十一日にかけて、韓国ソウルで「アジアにおける平和のかけ橋」をテーマとして開催された。アジアの殆どの宗教を網羅する四百名以上の人々が 二十二か国からこれに参加した。
われわれはこの会議が、平和のかけ橋を緊急の課題としている分断国家において開催可能となったことに思いを致し、かつこれを評価するものである。この会議自体が、分断されたこの民族の上に平和と和解のかけ橋をかえるべく、これに着手することを助ける機縁となり霊感となることを切に望む。ともあれアジアにはわれわれを距てる多くの分裂があり抗争がある。以前の会議におけると同様、われわれは宗教者として、貧しい人たち、虐げられている人たち、生きる道を奪われている人たちの側に立つべきことを明言する。宗教者は中立を装うことはできない。
われわれの心は、苦しめる人たちと一体となり、この人たちの苦しみを和らげるために、われわれはなしうべき最善の努力をどこまでも続けるであろう。
あまりにもしばしば、人々は、差別や不平等、人間の基本的欲求の否定などによって互いに分け距てられている。これらのものによって惹き起された緊張やあつれきは、より健全な態度、より強固な協力関係を生み出すべく轉化され創造的ならしめられなければならない。この会議は、アジアにおける平和のかけ橋の一つのささやかな実例となるであろう。
今このとき、アジアは抗争と対決、主導権争いと圧制によって千々に引き裂かれている。到るところ軍事化の度合いは増進し、政治権力は権威主義化の途をたどる。かくして、軍備の増大と欠乏の増大との悪循環はますます高進するばかりである。こうした解決困難な状況のただ中で、今後も続くたたかいに備えて霊的な力と宗教的洞察を求めつつわれわれはソウルに参集した。
われわれの取り組み
アジアの深刻な諸問題-暴力、抑圧、貧困、差別等々-は互いに絡み合っている。したがってこれらの問題 に対処するには、全体的な取り組みが是非とも必要となる。
われわれは人間の尊厳の宗教的意義を強調する。人権は人間の尊厳に由来するが、人権の目標である人間化の宗教的理解もまた大切である。人間の尊厳の至高性は、人の体系によって擁護される絶対的な諸価値にその基礎を置く。 人権の体系は、人間の尊厳が人間性の開花として十分に発揚されるためにあるものであり、また人権の体系は、 あらゆる種類の権力の責任ある行使を要求するものである。「人間の尊厳と人間化の促進」をめぐる議論を通して われわれは、家族の強制的離散や、原爆の後遺症といったかたちにおける異国による支配がもたらした数々の苦しみをあらためて心に明記するにいたったが、これに対しては、 宗教的懺悔をもってあらゆる助力を惜しまず、その救済に努めるべきである。
アジアにおける社会的弱者や差別されている側の無力さを克服するには、社会の物の見方や習慣を変える必要がある。この点、アジアのかなり多くの国では、社会的立法だけが先走って現実は旧態依然としている。であるからこそここでの宗教の役割は、人々の意識を高めることであり、そのためには宗教による平和教育が是非とも必要となる。
「貧困からの解放」は今日緊急の課題である。これなしには人は尊厳ある人間として生きることができない。人間の基本的欲求は満たされるべきであるが、これこそ平和にとって不可欠の条件である。同時にまた宗教者は、物質的な豊かさや贅沢は、霊的貧困をもたらすことを指摘すべきである。であるからこそ諸宗教は、人々に質素な生き方をすべきであると説いてやまないのである。諸宗教はまた貧しい人たちは、奢り高ぶりに陥ることが少ないゆえに、それだけ真理や愛により近いとわれわれに教える。宗教者は、進んで他者を助け、共に生きることができるように、自ら貧しくなるように心すべきである。貧困からの解放のために、献身と奉仕が宗教者に求められなければならない。
「非暴力の達成」を考えるに当って、われわれは最近のフィリピンにおける非暴力的政治変革の成就によって大いに力づけられた。宗教者にとって非暴力とは、単なる教えにとどまらず、実践でもある。それは一つの哲学にとどまらず、また一つの方法である。
非暴力は、現代の世界に広くみられる暴力との関連においてその宗教的意義を獲得する。非暴力は、暴力からの逃避ではなく、暴力の克服である。非暴力は、人々から人間の尊厳を奪う現代世界の悪と不正義に立ち向うことを意味する。
今日の世界における暴力は、種々のかたちをとる。核軍備競争に基礎をおく恐怖の均衡の体制、不正にして抑圧的な政府、経済的搾取の諸構造、そしてこれらのものに対する対抗暴力などが、それである。またそれは、われわれの心にひそむ攻撃性、憎悪、権力欲、誇りなどとしても現れるかもしれない。
不正な体制に内在する隠されたかたちの暴力が、しばしば霙は眼にみえるかたちの暴力の真因であることをわれわれは認識しなければならない。われわれの課題は、この両者を、非暴力的手段によって克服することである。非暴力は、真理の道であり、苦難と犠牲の道である。非暴力は、暴力の犠牲者たちを顧みること、不正な暴力の体制の変革をめざすこと、そして非暴力のわざと思想を人々に教育することなどをわれわれに命ずる。
とりわけ青年達を対象として非暴力に関する訓練コースを設けることが、緊急時である。これによって青年たちは、建設的、和解的、抑止的活動に従事することができるようになり、心の変革と諸制度の変革をもたらすであろう。
われわれの課題
「共に生きる宗教者の革新」を考えるに当って、「革新」とは古い実体に新しいものを何がしかつけ加えるといったことではないことを銘記する必要がある。「革新」とは、精神と心の徹底した内面的変革を意味し、しかもこれは至高の恵みと憐みによってのみ可能となる。宗教者は、各自の宗教の基本的信仰を妥協させることなく、「革新」され、そして「共に生きる」ことを学ぶように心掛けなければならない。
われわれは各自の宗教信仰の原点に立ち帰って「革新」され、その霊的な資源を糧として他者を愛し他者に仕えることができる。
宗教者どうしが互いに相手を受け入れ、正義を伴う平和を樹立するためにともに働くことが我々の究極的な目標である。われわれはその宗教的背景を異にするにもかかわらず霊的な交わりを保ち、他者に仕える務めを分ち合うことができる。共に祈りかつ働くことが宗教者の共に生きる姿でなければならない。
「平和教育」は、平和に関するはっきりした理解をえさせることが肝要である。というのは平和はしばしば、戦争や争いがないこととして、消極的に理解されがちであるからである。調和にみちた生活と分ち合いとしての平和の積極的動的な意味が探究されるべきである。平和は、人格の内面的調和、人と人の間の調和、人と自然との間の調和、 そして人間と究極的な生の根源との間の調和を要請する。
平和教育は、平和に関する知識のみならず平和への意思力の養成をも要求する。平和教育は、自らの中に軍縮教育・開発教育・人権教育を統合した一つの全体的アプローチを展開して然るべきであろう。
平和教育は、異なる宗教間の共同事業となりうるであろう。歴史的事実が歪められたり、自民族中心の平和の解釈がなされたりしないために、国際的および宗教的協力によって平和に関する教科書を作成することが真剣に試みられるべきである。「地球共同体に対するアジア諸宗教の貢献」は、そもそもいかなるものであろうか。科学・技術の供与する利益は、破壊と殺人に寄与するのではなく、アジア、そして世界の人びとのより人間らしい生活のために役立てられるべきである。この目的のためには宗教のもつ精神的遺産が活用されなければならない。平和・正義・福祉の目標が達成されるように科学・技術を教導する霊性をわれわれは見出さなければならない。こうした貢献をするに当って、アジアの諸宗教は、しばしば現状維持や守旧主義の擁護者として無批判的に行動しがちであるから、自分自身の見直しを図らなければならない。近代社会の非人間化的諸力に対しても、霊的人道的諸価値をもってこれに立ち向かうようにせねばならない。
青年は、人類の未来の運命を形成するものである。「農村の発展における青年の役割」は、人類の未来にとって決定的なものである。青年は農村社会の宗教的側面、および自然との密接な結びつきを改めて評価し直すべきであろう。青年のもつ正義感、そしてその献身的精神は、人間的でしかも平和な社会の建設に欠くことのできない資質である。「青年の覚醒」のための特別キャンペーンや青年交流プログラムなどによって、青年は農村の再建に対する有意義な貢献を果たしうるであろう。
婦人はいのちを生み出すものである。婦人は人間のいのちの尊さと意味をわきまえる。しかしながら、婦人はこれまで永く抑圧や搾取に服せしめられてきたので、自信を取り戻すための手助けを必要としている。権利を享受しえず無学にとどめおかれた婦人たちに対して、然るべき指導と教育が施されるべきであり、これによって婦人たちが人間的諸価値や倫理・道徳上の価値を自らのものとするようにしなければならない。
人口爆発を抑制し、親としての責任を全うするには、宗教的人間的観点から見て異存のないような家族計画の方法がひろく奨励されるべきである。中絶は、胎児の生命を断つことのみならず、健康上の危険およびその他の諸問題を伴うゆえに拒否されるべきである。この害悪を除去するには、男女間の協力を確保することが最も大切である。
婦人はあらゆるレベルにおける意思決定に参加することが肝要である。かくして婦人たちは社会の開発に活発に関与し、平和のかけ橋を掛けることに力を致すであろう。
われわれの展望
いかなる人も、いかなる国も、いかなる大陸も、いかなる宗教も、この全地球的な、しかも問題の多い世界のなかで一つの「孤島」として存在することはありえない。生に向かうにせよ、あるいは死に向かうにせよ、われわれはすべて一つに結びつけられている。世紀の変り目を目前に控えるとはいえ、人類の生き残りを脅かす核絶滅の可能性があり、それは東西の決定的対決によって生じうるかもしれない。全地球的災害は、南北間の架橋不可能な断絶からも生じうるかもしれない。この予見しうる危険を前にして、われわれは宗教者として、二十一世紀に向かって、希望と信頼と愛のかけ橋を築く責任がある。 そうすることによって未来の世代は、平和な世界共同体、つまりそこでは人びとはもはや戦うことなく、互いを受け入れ、認めあい、分ちあい、平和と正義のための同労者としてともに働くような共同体に生きるものとなるであろう。われわれは、平和はなくてならぬものであり、平和は可能であるという展望を高く揚げる。
われわれの祈り
果たすべき仕事の大きさを前にして
責任の重さにうちひしがれんばかりとなり
到底その任に耐ええないことを
われらは告白するものであります。
されどわれらは、上よりの力と
導きと助けを信ずるゆえに
誓いを新たにしてこの困難な仕事に
立ち向かいます。
われらの弱さのただ中において
われらは強くされます。
アジアと世界の平和を作り出すものとして
とるにたらぬわれらをお用い下さい。
この会議が平和へのわれらの献身の
新たな出発点となりますように
われわれの関心
・アジア各地に生じている暴力の発現が止むことを切に願い、その速やかなる解決のためにわれわれは努力を傾ける。
・ソウルに平和教育センターを設立し、民衆の間に平和を愛好する態度を具体的に促進することを、ここに提案する。
・われわれは、朝鮮および他のアジア地域における過去の分裂により離散した家族が一つにされるよう、これからも積極的施策が講ぜられることをすべての関係当局に訴え、かつ要望する。
・われわれはまた、アジア各地域にみられる難民問題を憂慮し、人類全般の福祉のためにこれらの問題が解決されることを関係者すべてに訴える。
第三回アジア宗教者平和会議決議
一九八六年六月十六日より二十一日までソウルで開催された第三回アジア宗教者平和会議は、南アフリカの抑圧されている人々に深い憂慮を寄せ、彼らとの連帯を表明するとともにこうした非人間化を推進するアパレルヘイトの政策と体制が直ちに廃止されるべきことを要求する。
第三回アジア宗教者平和会議決議
一九八六年六月十六日より二十一日までソウルで開催された第三回アジア宗教者平和会議は、平和教育センターをソウルに設立することをここに決議する。